エミリー・ディキンソン「憧れは種のように」
by 小谷ふみ
この連載は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。
あなたへ
こんにちは。頬が凍るような風吹く日々が続いていますが、町のショーウインドはもう春の装い。毎年、「まだこんなに寒いのに、気が早いなあ」と思うのですが、暦は二十四節気の始まり「立春」を迎えました。冬はもう、春にバトンを渡したのですね。おかわりありませんか。
家の裏に、種類の違う紫陽花を3つ植えているのですが、葉っぱの赤ちゃんたちも一斉に芽吹いていました。七十二候が「東風解凍(はるかぜ こおりをとく)」とうたうように、霜柱も解け、土の中の生きものたちも、わずかに漂う春の香りに目覚めつつあります。
壁のカレンダーを太陽の「天の暦」とするならば、土に生きるものたちの季節を語る二十四節気と七十二候は「地の暦」のよう。「暑い」「寒い」といった体感とは少しズレがあるものの、私たちの暮らしのそばで、身体と心の調子にも深く結びついていると実感することがあります。
実は昨年から、こっそり取り組んでいる、運動の素人には少し難しい課題があります。
「Y字バランス」です。
十数年前、家族と将来の夢を語った時、すぐに思いつかず、苦し紛れにこれを掲げたことがありました。ずっと忘れていたのですが、昨年、体調を崩したり、大怪我をすることが続いた時、自分を作り直そうと決め、改めて目に見える目標として設定したのでした。
でも、何をやればいいか分からず、まずは体力をつけるべくスイミング。そして、同施設内のスタジオプログラムにも参加。タルタルなのにカチカチの身体で、鏡に囲まれたスタジオに立った時の、絶望的な気持ちといったら……。心の中、自分のガマの油に溺れながら、バレエやヨガ、太極拳、さらには、フラ、サルサまでつまみ食い。「体の使い方の共通項」など見つけながら、身体の方程式をYの字に解こうとする日々を送ってきました。
抱えた悩みが、淡い期待や小さな希望に育つこともありました。身体が柔らかく強くなったら、心もしなやかになれるのではないか。そしたらば、揺れやまぬゆりかごに、眠る病も目覚めなくなるのではないか、とも。
ところが、年末年始で生活のリズムが崩れ、たたみかけるように「寒の入り」、身体が動きづらく、筋肉も硬くなってゆきました。さらに、北風に身をぎゅっと縮める上に、たくさん重ね着をするので、心身ともに氷る石像のようになりました。
でも、あとひと月も経てば、「魚上氷(うお こおりをいずる)」時が来る、そう少し先の暦を拠りどころに、氷の下のワカサギの気持ちで、遠くの陽の光にゆらゆらと、揺られるままに過ごしました。
そして、いま「立春」。わずかながら、身体の奥が緩んで来たように感じます。冬眠期を超えてみると、以前より動きが深まったようにも。パンの生地や、ハンバーグのタネも、冷蔵庫で寝かせると美味しくなるように、人間にもそのような期間が必要なのかもしれませんね。
今はまだまだ、Y字どころか、T字行き止まりのこの身体。
目に見えないものの変化は、地底のマントルのようにとてもゆっくりです。
でも、ある時を超えると、すっと動くようになる、
そんな境界線があるのではないかと思っています。
きっと誰もが知っている、「自転車に乗れた」、あの瞬間のように。
暗い土の中から、明るい地上を目指す。
暗闇に佇む希望への、応援メッセージのような詩をおくります。
Longing is like the Seed
That wrestles in the Ground,
Believing if it intercede
It shall at length be found -The Hour, and the Clime,
Each Circumstance unknown -
What Constancy must be achieved
Before it see the Sun!憧れは 種のように
土のなか もがきながら
2つの世界をとりなす一線を越えたなら
きっと 辿り着くと信じて時の流れも 風の色も
なんの手がかりも ないままに
その ひたむきさは やがて実を結ぶ
太陽の光に出会うころには
春の新芽、そして夏の蝉。
彼らは地図や目印もないのに、どうやって暗闇から地上を目指すのでしょう。
私たちにも、そんな能力があればいいのにと羨しく思いますが、
生きとし生けるもの、みんな、
明るい方に向おうとする本能を、持ち合わせているのかもしれません。
「立春」を過ぎると、
雪解けの水が空にかえる「雨水」、
そして、冬ごもりから虫が目覚める「啓蟄」へ。
恵みの涙とともに、土も、身体も、ゆるみ、
春の扉は、さらに大きく開いてゆきます。
身体よ、心よ、柔らかく、強くなれ。
そろそろ、脚よ、あがれ。
卵をタテに立てるような、じれったさ。
壁のカレンダーに焦ってしまう日には、
地の暦に励まされながら、
時に、ちょっと逃げ場にしながら。
三寒四温の春のリズムで、
行きつ留まりつ、ちょっとずつ進んでゆく。
Yの字の進捗を、またお知らせさせてください。
あなたのいない夕暮れに。
文:小谷ふみ
朗読:天野さえか
絵:黒坂麻衣
小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて
最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。
「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。
その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。
彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。
2020年 秋 小谷ふみ
小谷ふみ
書く人。詩・エッセイ・物語未満。
うろうろと、おろおろと、揺らぎながら揺らがない言葉を紡ぎます。
夫と息子とヤドカリと、丘の上で小さく暮らしています。いまやりたいことは、祖父の一眼レフを使いこなす、祖母の着物を着こなす(近所のスーパーに着て行くのが億劫でなく、そして浮かない)こと。
本「よりそうつきひ」(yori.so publishing)・「やがて森になる」・翻訳作品集「月の光」(クルミド出版)・詩集「あなたが小箱をあけるとき」(私家版)など。