エミリー・ディキンソン「心には いくつもの扉があって」
by 小谷ふみ
この連載は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。
あなたへ
こんばんは。
町が秋色に染まりゆく日々に、人恋しいような、ひとりでいたいような、振り子のように心揺れるのは、秋の空のせいでしょうか。おかわりありませんか。
夕方には、暗闇がますます濃くなり、西の空の一番星がいっそう輝きを増すようです。
秋の夕暮れに、どの星よりも早く、強く輝く金星を見つけると、友達の黒猫を思い出します。
10年ほど前のこの時期に、猫が苦手な友人が、猫と暮らし始めました。
もともと犬派を公言し、いつか行き場を失った犬を迎えたいと話していた彼女。猫のことを、嫌いというより不気味だと怖がって、黒猫が前を横切るだけで、縁起が悪いと騒いでいたこともありました。そんな彼女が、おとなの黒猫を迎えた時には、ちょっと信じられない気持ちでした。
猫を迎えてひと月ほど経った頃、彼女の家に遊びに行く機会がありました。新しい家族、黒猫のイクリプスに会えるのを楽しみにしていたのですが、会うことはできませんでした。
彼女の家に来た日からずっと、ベットの下から出て来なかったのです。
聞けば、多頭飼育がうまくいかなかった家の隅で、ひどく痩せ細り、うずくまっているところを保護されたそうです。警戒心が強く、保護されている間はゲージ奥のドーム型ベッドに篭り、誰にも姿を見せることはありませんでした。
ある日、彼女が施設を訪れ、ゲージの前を通りかかった時のことでした。何気なく奥を覗き込んでみると、かすかに「にゃあ」という鳴き声が。それが、彼女には「やあ」という言葉に聞こえたのだと言います。
それから、しばらく会いに通ったのち、スタッフの方に「ずっとゲージから出てこないかもしれない」と言われても、受け入れを申し出たそうです。
彼女の家に来て、ゲージを出たのはよかったものの、すぐベット下に姿を消したイクリプス。私が訪れた時、半分開いた扉の隙間から部屋を覗くと、ベットの下からじっとこちらを伺っているのが分かりました。
その姿は暗闇に溶け、金色の目だけが、夜空に浮かぶ2つの星のように鋭い光を放っていました。
扉が大きく開いて明かりが差し込むと、目の奥にある丸い瞳が、キュっと縦に細くなり、身構えるのが分かりました。でも、扉を完全に閉めてしまおうとすると、「にゃー」とひと鳴き。それはまるで「いやー」と言っているようで、「そこは開けておいて。ひとりにしないで」という言葉が、闇の奥から聞こえてくるようでした。
黒い瞳は、心の扉のように、開きかけては閉じ……を繰り返していました。
それでも彼女はイクリプスが来てから、夜よく眠れるようになったと言っていました。
いてくれるだけでいい、いつかここが安全な場所だと分かってもらえればいい、とも。
今日は、誰かに心を閉ざしたことも、閉ざされたこともある私たちに、
「こんな心持ちでいたらいい」という、ヒントになりそうな詩をおくります。
The Heart has many Doors ―
I can but knock ―
For any sweet "Come in"
Impelled to hark ―
Not saddened by repulse,
Repast to me
That somewhere, there exists,
Supremacy ―心には いくつもの扉があって
私は そっと扉をたたくだけ
「どうぞ」と やさしい答えを待ちながら
じっと 耳を澄まして
扉を開けてくれなくても 大丈夫
心満たされるから
そこに いてくれるだけで
大切なあなたが
あれから、彼女とイクリプスに、いくつもの季節が訪れました。
徐々にベットの下から顔を出すようになり、扉の向こうから、じーっと彼女を観察し続けたイクリプス。数ヶ月経ったある日、台所に立つ彼女の足に、黒く滑らかな身体を寄せて来たそうです。
やがて、彼女の膝の上でお腹を出して眠るまでになりました。こっそり教えてもらったのですが、イクリプスのお腹は、輝くように真っ白なのだそうです。
黒い闇の扉は、密かにあたたかな白い光を抱いていたのでした。
相変わらず、私には姿を見せません。でも、お泊まりに行くと、闇夜にその気配を感じます。電気を消してしばらくすると動き出し、そのうち、おもちゃで遊びはじめ、家中を走り回ります。
そして、闇の中シュッシュッと横切る金色の目は、まるで2つの流れ星のようなのです。
彼女にそう言ってみると、「何か願っていいよ、2つ」とちょっと得意げな返事が返って来ました。不吉だなんて言っていたのは誰だっけ。流れ星2つ分の願いごとを考えながら、いつの間にか眠りにつきました。
翌朝、目を覚ますと、イクリプスのお気に入りのおもちゃが2つ、私の枕元に並べられていました。
開くか分からない扉を、そっとノックし続けた彼女。
でも、最初に「やあ」と彼女の扉をノックし開いたのは、イクリプスの方でした。
誰の心にもある「開かずの扉」。
「ほっといて」。
「ひとりでしないで」。
扉の向こうのかすかな声に、耳を澄ましながら。
また、手紙を書きます。
あなたのいない夕暮れに。
文:小谷ふみ
朗読:天野さえか
絵:黒坂麻衣
小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて
最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。
「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。
その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。
彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。
2020年 秋 小谷ふみ
小谷ふみ
書く人。詩・エッセイ・物語未満。
うろうろと、おろおろと、揺らぎながら揺らがない言葉を紡ぎます。
夫と息子とヤドカリと、丘の上で小さく暮らしています。いまやりたいことは、祖父の一眼レフを使いこなす、祖母の着物を着こなす(近所のスーパーに着て行くのが億劫でなく、そして浮かない)こと。
本「よりそうつきひ」(yori.so publishing)・「やがて森になる」・翻訳作品集「月の光」(クルミド出版)・詩集「あなたが小箱をあけるとき」(私家版)など。