エミリー・ディキンソン「小鳥が小道におりて来た」
by 小谷ふみ
この連載は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。
あなたへ
こんばんは。夕暮れの風の隙間に、蝉の声が交じる季節になりました。おかわりありませんか。蝉の声は夏の目覚めの合図のよう。あの夜の出来事も蝉が鳴き始めたばかりのことでした。
足りないものをコンビニに買いに行った夜のこと、自動ドアの蛍光灯の下に何か黒いものが転がっているのを見つけました。それは、ひっくり返ったカブトムシのメスでした。夏はまだ始まったばかりだというのに、なぜか傷だらけでツヤも悪く、生きることへの諦めの空気を漂わせ、起き上がらせてもじっと動きません。
昆虫や動物を保護することは、彼らの日常に足を踏み入れ、自然の摂理に逆らうことになるのではないかといつも躊躇うのですが、コンクリートの上で命が絶えるのはやはり忍びなく、ひとまず連れて帰ることにしました。家に帰るとすぐにプラスチックの箱に穴を開け、新聞を敷き、餌には……楽しみに取っておいた頂き物の桃を入れ、そして最後に、放心状態のカブトムシを高級桃の上に乗せました。私もその桃、食べたかったんだけどなと羨ましさをこらえて。
翌日も一日中、桃の上で同じ体勢のカブトムシのカブ子。週末にはカブ子を桃ごと土に返しに行こうと、そのままにしておきました。もう元気にはなれなくても、さいごは桃の甘い香りに包まれ安らかに、と願いながら。
「ブーン、ボン!ブーン、ボン!」夜中になんだろう。
小さなプロペラが回る音がする。そして、ぶつかる音がする。音をたどると、カブ子が箱の中をブンブン飛びながら、蓋にガンガン体当たりしていたのです。まる二日間、桃にかぶりつき、元気とガッツを取り戻したカブ子。荒ぶる直径3センチの戦闘機を、朝が来るまで小さな箱に閉じ込めておくことは出来ないと、森へ返しに行くことにしました。
森は、夜もまだ続く蝉しぐれ。肌に触れてきそうなほどに降りそそぐ蝉の羽音が、森の入り口のカーテンのようでした。それは静かな月に照らされて、向こう側へ二本足の生き物が立ち入ることを、少し恐ろしく思わせました。
箱の蓋を開けると、コンビニの蛍光灯では弱々しかったカブ子の背中が、力強く月明かりを受けとめていました。そして、桃にも、私たちにも振り返りもせず、カーテンの向こうへと消えて行きました。
茶色くしおれ残された桃。役目を終え、私の我慢が報われた瞬間でもありました。
視線を少し上に向ける。また、ちょっと下に向ける。
それだけのことで、私たちが分け合っている世界に気づくことができる。
今日はそんな、いつもは見えない互いの日常がふいに交わる瞬間を、そっと束ねたような詩をおくります。
A Bird, came down the Walk -
He did not know I saw -
He bit an Angle Worm in halves
And ate the fellow, raw,And then, he drank a Dew
From a convenient Grass -
And then hopped sidewise to the Wall
To let a Beetle pass -He glanced with rapid eyes,
That hurried all abroad -
They looked like frightened Beads, I thought,
He stirred his Velvet Head. -Like one in danger, Cautious,
I offered him a Crumb,
And he unrolled his feathers,
And rowed him softer Home -Than Oars divide the Ocean,
Too silver for a seam,
Or Butterflies, off Banks of Noon,
Leap, plashless as they swim.小鳥が小道におりて来た
私が見てるのも知らないで
虫を半分にちょんと切り
食べてしまった 生のままそれから そばの草葉から
露をひとくち
塀の方にぴょんとひと跳ね
カブトムシに道をゆずったキョロキョロと見渡して
あっちこっちを見回して
その瞳はまるで怯えたビーズのよう
ビロードの頭をかすかに動かして何か起こるかと身がまえて
私がパンひとかけらをさし出すと
羽根をほどいて
空へと はためかせた水面(みなも)に跡ものこさずに
銀色の海をゆくオールよりも
午後のほとりをとび立って
音もなく泳ぐ蝶よりも そっと
庭のベリーの実を、小鳥が代わる代わるついばみに来るので、試しにひとつ食べてみたら、ふっくらと甘く、想像以上に美味しくて驚きました。そこで、私たちも収穫することに。
上の方に実ったものは小鳥に取っておき、下の実は虫たちへ、真ん中の実だけを自分たちに。
庭のベリーを、小鳥と虫とついばみながら、
あなたにも食べさせてあげたいと思いました。
ひとつの木を、ひとつの実を、
そして、ひと夏を分け合って。
近くにいても、離れていても。
あなたのいない夕暮れに。
追伸
今年の夏もまた新たな訪問者が。
玄関を開けたところに、弱々しいクワガタの男の子、クワ氏です。
「あそこに行けばなんとかなる」と近所で評判なのでしょうか。
文:小谷ふみ
朗読:天野さえか
絵:黒坂麻衣
小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて
最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。
「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。
その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。
彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。
2020年 秋 小谷ふみ
小谷ふみ
書く人。詩・エッセイ・物語未満。
うろうろと、おろおろと、揺らぎながら揺らがない言葉を紡ぎます。
夫と息子とヤドカリと、丘の上で小さく暮らしています。いまやりたいことは、祖父の一眼レフを使いこなす、祖母の着物を着こなす(近所のスーパーに着て行くのが億劫でなく、そして浮かない)こと。
本「よりそうつきひ」(yori.so publishing)・「やがて森になる」・翻訳作品集「月の光」(クルミド出版)・詩集「あなたが小箱をあけるとき」(私家版)など。