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エミリー・ディキンソン「水を喉の渇きが」


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by 小谷ふみ

この連載は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。

mai kurosaka 08


あなたへ

こんにちは。
節分をまたぎ、暦は冬から春になりましたが、しかめ面の北風はまだまだ健在で、春はどこか遠くで眠ったままのようです。
風邪など引いていませんか。
私は鼻風邪を引きかけましたが、ひどくなる前に引き返すことができました。
鼻や喉、頭やお腹、どこにも痛みや違和感がない、それだけで嬉しくなります。

日々、黙々と、身体は絶妙なバランスを保ちながら機能しているという奇跡を、調子を崩すたびに思い知ります。
そして、いつものご飯の美味しさや、外に出れば空が青いこと、その下を風に吹かれながらスタスタと歩けること、そんなありとあらゆる、日々の「当たり前」を新鮮に、尊く感じます。

でもやがて、その気持ちは、だんだんと、また「当たり前」の日々に埋もれてしまうのですが……。「当たり前」のよろこびは、忘れられやすく、とても儚いものですね。

大きな病気をしてからは、「また忘れてない?」と、チクリつねられるような瞬間があります。
月に一度、眠る病の様子をうかがいに病院に行くのですが、採血室にはいつもなぜかジャズが流れています。ジャズをバックミュージックに、左腕がチクリとすると、身体を巡る赤いものが、針の先から、透明の細いチューブを通り、ゆっくり試験管へと運ばれてゆきます。

このチューブが腕に触れると、それはとても温かいのです。
こんなに温かいものが、私に、あなたに、巡っているのだということに、いつも驚いてしまいます。
最近では、「パブロフの犬」のように、ジャズを聴くと「痛み」と「ぬくもり」の記憶が、身体の奥に湧き上がります。
私のジャズの聖地が、ニューオリンズでもブルーノートでもなく、病院の採血室なのはヒミツです。

今日は、そんな「痛み」を知る「ぬくもり」の詩をおくります。

Water, is taught by thirst.
Land — by the Oceans passed.
Transport — by throe —
Peace — by its battles told —
Love, by Memorial Mold —
Birds, by the Snow.

水を 喉の渇きが
大地を 渡ってきた海が
喜びを 苦しみが
平和を 戦いの物語が
愛を 思い出の輪郭が
小鳥を 雪が伝えてくれる

北風の隙間からふわふわと舞っていた雪が本降りになり、今朝、起きたら町が一面、雪に包まれていました。

近所の小学校でチャイムが鳴り、聞こえてきたいつもとは違う子どもたちの歓声に、ハッとしました。その声がまるで、雪の中を飛び立つ小鳥のようで。

真っ白なスクリーンのようになった校庭に駆け出し、はしゃぐ子どもたちの声に、何か気づいていないことや、忘れてしまっていることがあるような気がして、すぐに溶けてしまう雪のひとひらを手にするように、その儚い気配を追いかけてしまいます。

楽しかったことや、ぬくもりは、柔らかな雪のように手のひらからすぐ消えてしまうのに、悲しみや痛みの記憶は人の心に深く積もりがちです。

明日、目が覚めたら、あなたに積もった辛いことや悲しいことが、雪と一緒に溶けてなくなっていますように。

あなたに、やがてやさしい春が目を覚ますように祈っています。
ここで、ジャズを聴きながら。

あなたのいない夕暮れに。

文:小谷ふみ
朗読:天野さえか
絵:黒坂麻衣

小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて

 最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。

「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。

その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。

彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。

2020年 秋 小谷ふみ

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小谷ふみ

書く人。詩・エッセイ・物語未満。
うろうろと、おろおろと、揺らぎながら揺らがない言葉を紡ぎます。

夫と息子とヤドカリと、丘の上で小さく暮らしています。いまやりたいことは、祖父の一眼レフを使いこなす、祖母の着物を着こなす(近所のスーパーに着て行くのが億劫でなく、そして浮かない)こと。

本「よりそうつきひ」(yori.so publishing)・「やがて森になる」・翻訳作品集「月の光」(クルミド出版)・詩集「あなたが小箱をあけるとき」(私家版)など。

http://kotanifumi.com/