エミリー・ディキンソン「世界に春が芽吹いたら」
by 小谷ふみ
この連載は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。
あなたへ
こんにちは。
吹く風に柔らかな春を感じられるようになりました。おかわりありませんか。
まだ寒の戻りもあり、厚手の衣類をしまったり、また引っ張り出したり、身にまとうものも定まらない日々です。
町の桜もまた、冷たい風に膨らみかけたツボミを固くし、ほっとほころべるその時を、じっと待っているようです。
桜が咲きそうなこの時期になると、私には「桜の音」が聴こえます。正確には聴こえるような気がして、木のそばに寄ると耳の奥がむずむずザワザワするのです。
桜は咲く直前になると、あの茶色いゴツゴツとした木の皮や枝から、「桜色の水」が採れるそうです。冬のあいだ、ひっそりと木の幹に蓄えられてきた「桜の水」は、春の日差しや南風を合図にツボミへと向かい、花となって咲くのです。
そして桜は、花びらや葉を散らしてからも「桜」であり続け、次の春に花咲くその時を、全身に「桜の水」を抱きながら待ちわびるのだそうです。
この時期、私に聴こえる「桜の音」は、木の幹を流れる桜色の水が、花びらに向かう音なのかもしれません。
冬のあいだ、すべてが枯れたように見えた木々や草花、姿を消した虫や生き物たちも、幹の奥で、土の底で、静かに春の準備を重ねていたのですね。南風に小さく目覚めても、寒さに引き戻されながらも、やがて芽吹き、花咲き、春にほころんでゆくのだなと感じます。
一方、私は春の光の元に照らされる準備がまだ出来ていません。毎日着込んだ冬着はクタクタになり、肌はカサカサ、髪もボサボサ。コタツの安らぎともお別れしなければならないのかと、冬の眠りから覚めたくないような気持ちにもなります。
南風が吹くだけでは、なかなか起き上がれない心もあります。
今日はそんな、まだ立ち上がれない私たちへの、春の詩をおくります。
Spring comes on the World -
I sight the Aprils -
Hueless to me, until thou come
As, till the Bee
Blossoms stand negative,
Touched to Conditions
By a Hum -世界に春が芽吹いたら
あらゆる4月の姿が目に映る
でも あなたがいないと
私にとっては彩りのない世界
それはまるで
ミツバチがやって来るまでは
立ち尽くすだけの花のように
その羽音に心ときめかせながら
この心を揺り起こし、コタツの外へ引っ張り出してくれる誰かにとってのミツバチは、ずっと会いたかった友人だったり、新しく始める趣味だったり、枯れた庭に顔を出す新芽だったり。
私には「あの人は元気かな」と思い出すように、春が来るたびに「あの桜は咲いたかな」と心に浮かぶ木があります。それは古いお城の跡地に立つ大きな桜の木で、ある眠れない夜、散歩に出かけた時に出会いました。
その満開の桜は、少し肌寒い、月も星もない夜空の下で、暗闇のなかボウッと浮かび上がって見えました。桜色の炎をつけた、大きなタイマツのように。
誰もいない静かな場所で、いっぱいに広げた枝、その枝の先の先まで、可憐にも力強く花咲く姿。誰が見ていても、見ていなくても、誰のためでもなく、桜は「桜」でした。
毎年、あの古城跡の桜はどんなに豊かな流れを抱いているのだろうかと、耳を澄まし、春を迎える気持ちを高めています。
時に、冷たい風に引き戻されながらも、あなたの新しい季節が立ち上がり、前へと歩みを進めますように。
あの遠くの桜を想うように、あなたにほころぶ春を想い、ここでそっと耳を澄ましています。
あなたのいない夕暮れに。
文:小谷ふみ
朗読:天野さえか
絵:黒坂麻衣
小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて
最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。
「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。
その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。
彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。
2020年 秋 小谷ふみ
小谷ふみ
書く人。詩・エッセイ・物語未満。
うろうろと、おろおろと、揺らぎながら揺らがない言葉を紡ぎます。
夫と息子とヤドカリと、丘の上で小さく暮らしています。いまやりたいことは、祖父の一眼レフを使いこなす、祖母の着物を着こなす(近所のスーパーに着て行くのが億劫でなく、そして浮かない)こと。
本「よりそうつきひ」(yori.so publishing)・「やがて森になる」・翻訳作品集「月の光」(クルミド出版)・詩集「あなたが小箱をあけるとき」(私家版)など。