新訳 「茶の本」 第二章:茶の流派(3/4)

by 高崎健司
< 前回からの続きです。
第二章.茶の流派 (3/4)
宋の時代になると茶を泡立てる抹茶が流行し、茶の第二の流派となった。
茶葉は小さな石臼で細かい粉末に挽かれた後、裂いた竹で作った繊細な茶筅(ちゃせん)で湯の中で泡立てられる。
この新しい製法は、陸羽の時代の茶道具に変更をもたらし、使用される茶葉も変化し、塩が茶に使われることは永遠になくなった。
宋の人々の茶への情熱はとどまることを知らなかった。
美食家たちは新しい茶葉の発見を競い、その優劣を決めるため定期的な品評会が開催された。
徽宗帝(1101-1124)は、良き君主としてではなく、偉大な芸術家として名を残そうと珍しい茶葉を手に入れるために財を惜しみなく使った。
彼自身も二十の茶について論文を著し、その中でも『白茶』を最も稀少で最高のものとして賞賛した。
宋の時代の茶の理想は、人々の人生観がそれぞれ異なっているように、唐の時代とは違っていた。
彼らは先人たちが象徴として扱おうと思ったものを、具現化する道を求めたのだ。
朱子学の精神にとって、宇宙の法則は現実世界を支配するものではなく、現実世界こそが宇宙の法則そのものであった。
一瞬の中に永遠が存在し、悟りは手の中にある。
絶えず変化していくことの中に、永遠が存在するという道教の概念が日常のあらゆる場に浸透していった。
興味深いのは、その結果でなく過程であった。完成させることではなく、完成させる過程にこそ、本当に大切なものが宿っている。
人はこうして、まっすぐに自然と向き合い、人生という芸術に新たな意味が生まれ育つ。
茶は詩情を持った遊びではなく、自己の悟りを開く手段となり始めたのだ。
宋代の文人、王禹偁(おううしょう)は茶を称えてこう言った。
『直接繋がっているかのように魂を満たし、その苦味さえ良き忠告を受けた後のような後味に感じる』
北宋の大文豪、蘇東坡は、茶の穢れなき純粋性を、腐敗を寄せつけない真の君子と重ねた文章を書いた。
仏教徒の間では、道教の教義を多く取り入れた南宗禅が、精緻な茶の儀式を作り上げた。
僧侶たちは禅宗の初祖、達磨大師の像の前に集い、キリスト教で言えば聖餐のごとき深遠な儀式をもって、一つの碗から茶を飲んだ。
この禅の儀礼こそが、十五世紀になり、日本の茶道へと発展したのである。
不幸にも十三世紀におけるモンゴル民族の勃興と中国への侵攻、それに伴う元朝の皇帝の野蛮な支配は、宋の時代に築かれた文化を徹底的に破壊した。
十五世紀中頃、民族復興を試みた漢民族による明朝の統治は内紛に悩まされ、中国は十七世紀に再び異民族である満州族の支配に落ちた。
礼節も作法も失われ、かつての時代の文化は戻ってくることはなかった。
抹茶は完全に忘れ去られてしまったのだ。
その証拠として明の時代の研究者が、宋の時代の古典に出てくる抹茶を混ぜるための茶筅(ちゃせん)の形状がわからず困っている記録が残されている。
次回は2025年12月26日公開予定





