新訳 「茶の本」 第二章:茶の流派(2/4)

by 高崎健司
< 前回からの続きです。
第二章.茶の流派 (2/4)
陸羽が生まれたのは、仏教、道教、儒教が互いに融合を模索していた時代であった。
神は万物に宿るとする当時の汎神論的象徴主義は、ひとつひとつの出来事の中に普遍的な真実が宿っていると考えた。
詩人である陸羽は、茶事の中に、万物に君臨する調和と秩序を見出した。
茶の聖典であり、傑作である『茶経』において茶の作法を体系化し、その後彼は茶聖として中国の茶商人から多大な尊敬を受けた。
『茶経』は、3巻10章で構成される。
陸羽は、第一章で茶木の性質、第二章で茶葉を摘む道具、第三章では茶葉の選定をテーマに論じている。
彼によれば、最高の茶葉は「騎馬兵の革靴のような自然な折り目や筋を持ち、雄大な牡牛の喉袋のように巻いた形状であり、峡谷から昇る霧のように広がり、やさしい風に触れられた湖のように輝き、雨に洗われたばかりの細かな土のように湿って柔らかくなければならない」という。
第四章では、三脚の炉からすべての茶道具を納める竹の戸棚まで、24点の茶の道具を紹介しており、陸羽の道教的象徴への偏愛が見て取れる。
また、茶が中国の陶芸に与えた影響は興味深い。
よく知られているように古代中国の磁器は、翡翠の洗練された色合いを再現しようとする試みに起源を持ち、唐の時代において南の青磁器と北の白磁器を生み出した。
陸羽は、青を茶杯の理想とした。
青は茶の色に自然な緑を添えるが、白では茶が桃色がかって見え、風情を壊してしまうからであるが、それは陸羽が煮出した餅茶を用いていたからでもある。
後に、宋代の茶人たちが泡立てられた抹茶を使うようになると、青黒や焦茶色の重い茶杯が愛されるようになった。
そして明代に湯に葉を浸す煎茶を飲むようになると、軽い白磁の器が愛好された。
第五章で陸羽は茶の製法について解説している。
彼は塩以外のすべての添加物の使用を許さなかった。
彼はまた、古来から多くの議論を呼んできた、どんな水を選ぶか、そして温度は何度が良いかという問題について詳しく論じている。
陸羽によれば、山の水が最も良く、川の水と泉の水がそれに次ぐ優れたものとされる。
そして茶を煮出す段階は三つ存在する。
一つ目は魚の目のような小さな泡が表面に現れるとき。
二つ目は水晶の珠が泉に転がるような泡が立つとき。
三つ目は大波が釜の中で激しく逆巻くとき。
餅茶は赤子の腕のように柔らかくなるまで火で炙り、上質な紙の間に挟んで粉末にする。
一つ目の段階で塩を入れ、二つ目の段階で茶を入れる。
三つ目の段階になったら、柄杓(ひしゃく)一杯の冷水を釜に注いで茶を沈め、『水の若々しさ』を再び蘇らせる。
そうして茶は注がれ、飲まれるのである。
それはまるで神々の飲み物のようだ!
羽のような茶葉は、とても晴れた日の遠くまで見える空に浮かぶ雲や、エメラルドグリーンの湖の流れに浮かぶ睡蓮のように優雅にただよう。
茶について、唐の詩人、盧仝(ろどう)はこう詠んだ。
『1杯目は唇と喉を癒やし、2杯目は孤独から解放する。
3杯目で、何もないと感じていた自分の中に詩想があることに気づくが、
ただ五千巻のおかしな文字でしか表現できない。
4杯目で軽く汗ばみ、汗とともに人生における憂いが自分の中から消えていく。
5杯目には身は清められ、6杯目は不老不死の理想郷へと導く。
7杯目——ああ、もはや飲めない!
自我は消え、ただ両袖に涼しい風の息吹を感じるだけである。
東の海にあるという蓬莱仙山はどこにあるのだろうか?
どうかこのやさしい風にのって、その場所まで行けたら。』
『茶経』の残りの章では、世俗的な茶の飲み方の俗悪さ、歴史に残る茶人の概要、中国の名作と呼べる茶園、茶の作法の変化、そして茶器の図解を扱っている。
残念ながら、最後の茶器の図解の章は失われている。
当時『茶経』の出現は大きな影響を与えたに違いない。
陸羽は代宗皇帝(763-779年)の庇護のもと、その名声は多くの弟子を引き寄せた。
極めて洗練された感覚の持ち主の中に、陸羽が淹れた茶と弟子たちが淹れた茶を見分ける者がいたと言われている。
ある官吏は、この偉大な茶聖の茶を理解することができなかったことで、その不名誉を後世に残すこととなった。
次回は2025年12月12日公開予定





