新訳 「茶の本」 第二章:茶の流派(4/4)

by 高崎健司
< 前回からの続きです。
第二章.茶の流派 (4/4)
茶は今や、碗や杯の中で熱した湯に茶葉を浸し、飲まれている。
西洋世界が宋の時代にあったような泡立てて飲む古いお茶の飲み方を知らない理由は、ヨーロッパが茶を知ったのが明朝末期になってからであることを示している。
後の世の中国で、お茶は美味しい飲み物ではあるものの、人生の理想を重ねるようなものではなかった。
長く続いた国難は、人生の意味を考えるという気力を人々から奪ってしまったのだ。
国民は現代的になった、つまり老い、探求を諦めたのである。
かりに幻想に過ぎないとしても崇高な信仰を持ち探求を続けることこそ、詩人や先人の情熱と活力の源であったのに、それを失ってしまったのだ。
今や人々は妥協しながら現実を受け入れるだけの存在になってしまい、自然を弄ぶが、征服するわけでもなければ、崇拝するわけでもない。
明の葉茶は花のような香りを持ち、素晴らしいものも中にはあるが、その茶杯には唐や宋の儀礼が持つロマンを見つけることはできない。
対して日本は中国文明の歩みに深く寄り添い、茶の三つの段階の進化を取り入れて守り続けてきた。
すでに729年には、聖武天皇が奈良の朝廷で百人の僧侶に茶をふるまったという記録がある。
茶葉はおそらく遣唐使によってもたらされ、当時流行の方法で調製されたのであろう。
801年には、最澄という僧が茶の種を持ち帰り、比叡山に植えたという。
その後数世紀にわたって多くの茶園が生まれ、貴族や僧侶がこの飲み物を愛飲したことも伝えられている。
宋の茶は1191年、南宗禅を学びに渡った栄西禅師の帰国とともに日本に到来した。
彼の持ち帰った新しい種は、三か所の茶園で栽培され、そのうちの一つ、京都の宇治地方は、今なお世界最高の茶の産地として名を馳せている。
南宗禅は驚くべき速さで広まり、それとともに宋の茶の儀礼と理想も広まった。
十五世紀になると、将軍・足利義政の庇護のもと、茶の湯は完全に体系化され、独立した所作として市井の人々に広く受け入れられた。
それ以来、茶道は日本に完全に確立された。
明の煎茶の伝来は、日本では比較的新しく、十七世紀中頃以降に知られるようになったにすぎない。
日々の暮らしにおいて、煎茶は抹茶に取って代わったが、茶の中の茶として抹茶は、茶室の中で生き続けた。
日本の茶の湯にこそ、茶の理想の境地を見ることができる。
1281年、日本は元寇への抵抗に成功し、中国本土では異民族の侵略により無惨に断ち切られてしまった宋の時代の禅と茶の文化を守り続けることができたのである。
日本において茶の湯は、単に茶を飲む際の作法という意味を超え、生活の芸術として宗教になった。
この飲み物は、純粋と洗練に想いを馳せるためのきっかけとなり、主人と客人が同じ時間と空間を共有し、わたしたちのささやかな暮らしにおけるこれ以上ない幸福を生む神聖な儀式になったのだ。
茶室は、陰鬱な日々の中のオアシスであり、疲れた旅人たちが集まり、芸術を感じるという共通の泉から水を飲むことができる場所であった。
茶の湯とは、集った人々の想像力で作る即興劇であり、その筋書きは茶、花、そして絵画で紡がれる。
空間を乱す色彩は一つもなく、
存在する物が奏でる旋律を損なう音は一つもなく、
人々の調和の妨げになる身振りは一つもなく、
茶室という全体の統一を破る言葉は一つもなく、
すべての動作はシンプルかつ自然に行われる――
これらが茶の湯の目指すところであった。
そして不思議なことに、その営みはよく成功した。
背後に精緻な哲学が横たわっていたからだ。
茶道とは、姿を変えた道教そして禅でなのである。





