新訳 「茶の本」 第一章:茶に広がる人間性(4/4)

by 高崎健司
< 前回からの続きです。
第一章.茶に広がる人間性 (4/4)
茶の味わいの中には、それを理想化せずにはいられない繊細な魅力がある。
西洋でも粋を知るものは、彼らの思想と茶の香りを混ぜた。
茶にはワインのような傲慢さも、コーヒーのような自意識過剰さも、ココアの作り笑いのような無邪気さもない。
1711年にはすでに、イギリスの新聞『スペクテイター』にこんな文章が載っている:「それゆえ私は、毎朝、規則正しく1時間、茶とパンとバターの朝食をとっているご家庭に、この新聞を講読して茶道具の一部とみなすことをおすすめしたい」
文豪、サミュエル・ジョンソンは自分についてこう書いている:「筋金入りで恥を知らない茶飲み。20年この魅惑の植物を煎じた茶で食事を薄め、茶で夕べを楽しみ、茶で真夜中の闇を慰み、茶で朝を迎えた者」
茶道愛好者であることを公言したチャールズ・ラムは「人生で最良の喜びは、見返りを求めずに良き行いをし、それを自ら言わずとも感じとってもらえることだ」と書き、茶道の真髄と共鳴した。
なぜなら、茶道とは美しさを包み隠しながらも余白によってそれを想像してもらう美学だからである。
茶道とは、自分自身を穏やかに、でも徹底的に笑う品の良い技であり、であるからこそ、それはユーモアであり、東洋哲学の微笑みである。
人間性を深く見つめるものはすべて茶の哲学者と呼べるだろう。たとえば小説家のサッカレー、そしてもちろんシェイクスピアも。
退廃を言葉によって描いた詩人たち——もっとも世界が退廃していなかった時代などあっただろうか?——は、目に見えるものだけに価値があるという物質主義に抵抗し、茶道の世界の片鱗に触れた。
おそらく今日では、欠けてしまった不完全なものを想像によって補うことによってのみ、西洋と東洋は互いに心を支えあうことができるのだ。
中国の伝統的な宗教、道教を信じるものたちは、無から宇宙が始まるときに精神と物質が死闘を繰り広げたと語り継いでいる。
その神話の中で、天の太陽である黄帝は、闇と大地の悪魔である祝融(しゅくゆう)に打ち勝った。
祝融は死の苦痛の中で、青き翡翠でできた天空に頭をぶつけ、天空は粉々に砕かれ崩れ落ちてしまった。
星は住処を失い、月は闇夜の深淵の中を当てもなく彷徨った。
絶望した黄帝は、天空を直してくれるものを求め必死に探した。
そして彼はついに、求めている者に出会ったのだ。
東の海から創造の女神である女媧(じょか)が現れ、その姿は角の冠をいただき龍の尾を持ち、炎の鎧に身を包んでいた。
彼女はその魔法のような釜で、物質の源である木・火・土・金・水に対応する五色の虹をかけ、中国の空を修復したのだ。
しかし、女媧は空にできた2つの小さなひび割れを埋め忘れたと言われている。
こうして、陰と陽にも通ずる愛の二元性がはじまった。
2つの魂は、完全な宇宙を完成させるまで、時空間を当てもなくさまよい続ければならないのだ。
この不完全な世界で、われわれ一人一人が、ひび割れた空を新たに希望と平和で修復する責務がある。
この時代、われわれの空は、ギリシャ神話の一つ目の巨人、キュクロプスのように単眼的な視野で富と権力を求める闘争の中、まさに粉々に砕かれている。
世界は利己主義と衆愚の影の中をさまよい進んでいる。
知識は搾取とともに得られ、善行は利益のために行われる。
東洋と西洋は、荒々しい大海のうねりに巻きこまれた2つの龍のように、失ってしまった人間性を取り戻そうと争い、もがいている。
私たちは再び女媧のような救世主が現れ、世界を修復してくれることを望んでいる。
それまでの間、お茶でも飲んでいようか。
午後の光が竹林を柔らかく照らし、泉はよろこびに満ちあふれ湧き立つ。
風にそよぐ松林の音が、茶釜が湧き立つ音に重なる。
しばらくの間、一瞬の夢を見て、美しく愚かしいときに浸ろう。
次回は2025年11月14日(金)公開予定





