新訳 「茶の本」 第四章:茶室(5/7)
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by 高崎健司
新訳 「茶の本」 第四章:茶室(5/7)
「好き屋(すきや)」という茶室を含む日本建築に与えられた名前は、風流を好む個人の創意工夫によって建てられた建築物という意味を持っている。
茶室は茶人のために建てられるのであって、茶人が茶室のためにいるのではない。
それは西洋のように後世にまで続く建築ではなく、「今ここ」のために建てられたはかないものなのである。
人はみな自分自身の家を持つべきであるという考えは日本の古い慣習に根ざしている。
神道は、住居に住んでいた者が死んだときに、その家は捨て去られるべきと定めていた。
おそらくそこにはその当時の衛生上の理由もあったのだろう。
もう一つの古くからの慣習として、夫婦となる者にそのつど新築の家を建て与えるというものがあった。
古代において日本の都が頻繁に遷都されたのもそうした慣習ゆえである。
日の神を祀る伊勢神宮に式年遷宮という、二十年ごとに建物の建て替えを行う神事が古より続いているのがそれを象徴している。
それはひとえに容易に取り壊して容易に建て直すことのできる、日本の木造建築の工法が存在したからだ。
煉瓦や石を用いる西洋的建築であればこのような遷都を何度も行うことは不可能であったであろう。事実、日本も奈良朝以後、中国から堅固で重厚な木造構法を取り入れ、移築は簡単には行われなくなった。
しかしこの慣習は十五世紀に禅の考えと結びつき、より深い意義を持つようになった。
禅は諸行無常という仏教の教えと物質に対する精神の優位をもって、家はただ肉体の仮宿であり、その肉体ですら荒野の中の庵(いおり)にすぎず、あたりに生い茂る草を結び合わせただけのはかない仮の住まいであると定義した。
茶室においてはかやぶき屋根の造作のなさ、細い柱のもろさ、竹の支柱の軽さ、そして一見すると無頓着に見える素材の使用にそれが示されている。
永遠とは物質ではなく精神の中にのみ存在する。
簡素な佇まいの中に生きるものだけが、そのかすかな光の中で、それに気付くのだ。
茶室は個々人の好みに合わせてしつらえられるべきであり、それは芸術における創造の原理を貫くことに通ずる。
芸術はその人が生きた時代の生の反映であってこそ鑑賞するに値するのだ。
後世からの評価を気にするなというわけではない。
ただ、私たちはもっと今の生を楽しむべきである。
過去の芸術を軽んじろというわけでもない。
ただ、それらを意識しないでも創造できるようになるまで自分を高めるべきである。
伝統であるからという理由でただ盲従するだけでは建築の個性が消え去ってしまう。
今の日本に見られる無思慮に建てられた西洋の模倣建築を眺めるとき、私たちはただ涙するほかない。
そして思う。
西洋の最も進んだ国々においてすら、なぜ建築はこうも独創性のない、廃れた様式の繰り返しなのかと。
私たちはきっと芸術における民主主義が衆愚政治に堕ちた時代にいるのだろう、新たな国を打ち立てる、皇帝のごとき巨匠の出現を待ちながら。
願わくは古きものを模倣するのではなく、愛することを。
ギリシアの民が偉大であったのは、彼らが高度に発展した古代文明の模倣を行ったからではなく、愛したからだ。




