新訳 「茶の本」 第四章:茶室(4/7)
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by 高崎健司
新訳 「茶の本」 第四章:茶室(4/7)
こうして心を整えられた客人は、静かに茶室という聖域へ歩み寄る。
武士であれば刀を外し、軒下の刀掛けに置くことが求められる。
茶室とは、何よりも平和の家であるからだ。
それから客は身を低くかがめ高さ90センチに満たない小さな入口から、這うように室内へ入っていく。
この所作は身分の高低によらずすべての客人が守らなければならないルールであり、謙虚さを心に刻むためのものであった。
席次は待合で待つ間に話をつけているので、客人は一人、また一人と静かに席に移動し、まず床の間の掛物もしくは茶花に礼をしてから座に着く。
亭主が室に入るのは、客人たちが座につき、釜に沸きたつ湯の音のほかに静寂を破るものがなくなったときである。
その釜の底には鉄片が入っていて、独自の旋律を生むようによく歌う。
客人たちはその音色のうちに、雲の中の滝の流れの音、遠くの海の岩にぶつかる波の調べ、雨嵐の中の竹林の響き、どこか遠い山の松林を通り抜けていく風音、森羅万象の音を重ね想像するのだ。
日中でさえ、室内の光は押さえられている。
屋根から低く出たせり出しが、日の光をわずかにしか入れないからである。
天井から床まで空間のすべてが抑えられた色調のうちにあり、客人たちもまた抑えられた色調の装いで集う。
寂びという概念に通ずる歳月のまどろみが空間に流れ、ただ一つ、汚れの許されない竹の柄杓と麻の茶巾を除き、新しく手に入れたことを思わせるものは一切禁止とされる。
だが、茶室と茶道具がどれほど古びて見えようとも、茶室のもののすべては完全に清潔である。
最も暗い隅にも埃ひとつ存在しない。
もしそうでなければその亭主は茶人ではないのだ。
茶人たる者の第一の心得の一つは、掃き、清め、洗うことの知識である──掃除と塵払いのような日常の所作には、一つの芸術があるのだから。
アンティークの食器をオランダの主婦のように異常とも言える熱心さで磨き立ててはならない。
花瓶から滴る雫は、あえてあるがままの姿を残し、拭き取るべきでない。
それは涼しさとはかなさを、客人の心の中に描いてくれるのだから。
これに関連して、茶人たちの思い描く清潔さ、清らかさがどんなものであったのかうかがい知ることができる逸話がある。
ある日利休は息子の少庵(しょうあん)が露地を掃き、水を打つのを見守っていた。
少庵が掃除を終えると、「まだ十分きれいになっていない」と利休は言い、やり直しを命じた。
疲れ果てるほどの時間をかけて掃除した後、息子は利休に向かって言った。
「父上、もはや何もすることが残っておりません。
飛石は三度洗い、石灯籠にも木々にも、くまなく水を打ち、苔も緑に輝いております。
枝一本、葉一枚、地に残してはおりませぬ」
「そうではない」と利休は諭した。
「露地とは、そのように掃くものではない」
そう言うと、利休は庭へ行き一本の木を揺すって、秋の紅葉の葉を庭一面に散らしたのである。
利休が求めたのは自然を排除した清潔さではなく、自然とともにある清らかさなのである。




