新訳 「茶の本」 第一章:茶に広がる人間性(1/4)

by 高崎健司
目次
I. The Cup of Humanity
茶に広がる人間性
II. The Schools of Tea.
茶の流派
III. Taoism and Zennism
老荘思想と禅
IV. The Tea-Room
茶室
V. Art Appreciation
芸術鑑賞
VI. Flowers
花
VII. Tea-Masters
茶人たち
第一章.茶に広がる人間性
茶は薬として始まり、飲み物として愛されるようになり、8世紀の中国では高貴な嗜みとして詩歌に並ぶまでに発展した。
日本では15世紀に茶道として、生活の中の芸術の一つとして高められ、日々の忙(せわ)しない暮らしの中に、美しさを見出す儀式としてはじまったのである。
それは、純粋と調和、共同体としての善、社会秩序への理想を教えてくれる。
茶道とは、「不完全なものを愛でる」というわれわれの限られた人生の中で、それでもささやかに何かをしようとする試みなのだ。
世間一般の理解とは違い、茶の哲学とは単に生活の中の作法を表すものではなく、人と自然をどのように見て受け止めるかという視座を表しているという意味で、倫理や宗教に近く、
清らかにという点では衛生学であり、
複雑でコストのかかるものよりシンプルなものをという意味では経済学であり、
わたしたちの生きている世界との調和を目指すという意味で心の形を探求する幾何学でもある。
茶道は、その道を歩む者を美意識において貴族化することで、東洋の真の民主主義の精神を表しているのである。
日本が長く鎖国状態にあったことは、内省を促したという点で、茶道の発展にとても好ましいものであった。
日本の習慣、住居、陶磁器、漆器、文学さえ茶道の影響を受けている。
日本の文化を学んだ者で、それを否定できるものはいない。
茶道は貴族の優雅な生活から庶民の質素な居室にも浸透していった。
農民は花をいけることを覚え、つつましやかな労働者は自然に対する敬意を示す。
わたしたちの日常会話において、人間関係の機微に鈍感なものを「茶気がない」と呼ぶ。
一方、日常の中にある悲しみを無視し、花盛りの酒宴のような騒がしい感情ばかりを振りまく道化を「茶気がありすぎる」と呼ぶのである。
よそから見れば、こんなささいなことに「空騒ぎ※」することは不思議に見えるだろう。
※シェイクスピアの戯曲のタイトル
まるで茶碗の中の嵐ではないか、と言うものもいるだろう。
しかし、一杯の茶碗で受け止められる人生の喜びはとても小さきものであっても、
一杯の茶碗が涙を受け止めきれずにすぐに溢れてしまうとしても、
喜びも悲しみも、永遠を求める癒やされぬ乾きの中で一滴も残らないとしても、
茶碗にこだわることを非難される謂われはない。
人はもっと悪しき行いをしてきたではないか。
快楽の神、バッカスに生贄を捧げ、戦いの神、マーズに心臓を捧げてきた。
なぜ椿の女王(=茶の木)に心を捧げ、祭壇から流れる温かな共感の流れに身を任せてはならない理由があろうか。
白磁器に注がれた美しい琥珀色の流体に、茶道の心得のあるものは、孔子の心地良い謙虚さ、老子の深い洞察、釈迦の悟りの優美な香りに触れるのである。
自己評価が過大すぎるものは、他己評価が過小すぎる。
多くの西洋人は、その尊大な自己評価の中で、茶道を風変わりで幼稚な東洋の奇習のひとつとして見なしてきた。
日本がこの平和な芸術にふけっている間は蛮国と見なし、日本が満州で虐殺をしてはじめて、文明国と呼ぶようになったのである。
死に美を見出し、自己犠牲を良しとする兵士を生み出す武士道はたくさん語られてきた一方、生に美を見出す茶道については、全く評価されていない。
戦争でしか文明化が成し遂げられないとするなら、われわれは喜んで野蛮人のままでいよう。
そして東洋の芸術、理想に充分な敬意が払われることを、喜んで待とう。
いつになれば西洋は東洋を理解しようとするのだろうか?
アジア人は西洋の興味本位で編み込まれた偏見にしばし愕然とする。
東洋人はハスの香りだけで生きているのでなければ、ネズミやゴキブリを食べて生きているのでもない。
無知ゆえの熱狂に溺れているわけでも、あるいは卑しき快楽に溺れているわけでもない。
インドの精神性は無知として嘲笑され、中国の落ち着きは馬鹿にされ、日本の愛国心は、運命に従順な結果として軽蔑された。
西洋に対して東洋は神経組織が未発達であるために、痛みや傷に対して鈍いと言われてきたかのようだ!
われわれを嘲笑して楽しいだろうか?
アジアもまたやり返すだろう。
東洋が西洋について書いてきたことや想像してきたことを知れば、もっと笑えることは間違いない。それは絵画の遠近法のように、畏敬の念と、未知のものへの抵抗感の両方が存在する。
美徳はあまりに美化され、欠点はあまりに幻想的なものとして覆い隠されてきた。
かつて東洋の賢い著述家はこのように伝えた。
西洋人は衣服の下に毛むくじゃらの尻尾を隠し、生まれたばかりの赤子のクリームシチューを食べる。
いや、わたしたちはもっと辛辣な想像を抱いてきた。
西洋人は「汝の隣人を愛せ」と唱えながら他国を侵略し、自分では守るつもりのない教えを上から人々に説教する人間である、と。
次回は2025年10月3日(金)公開予定

高崎健司
1983年千葉県生まれ。
2005年国際基督教大学教養学部卒。
ソフトバンク(株)で4年半Webサイト構築の仕事に従事した後に、独立。
2011年、ECサイト制作に特化したnon-standard world株式会社を起業。
2022年、「揺れやすい心のよすがになる物事を作る」というコンセプトのもと、
yori.so gallery & labelを立ち上げ、アーティストと物事を共創する。
美しさとは?人の心とは?組織とは?という問いを探求するなかで、岡倉天心の茶の本と出会い、その魅力に取りつかれる。