額賀順子(ヌカガジュンコ)連載小説「小鳥と石」

小鳥と石 第3羽

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 迫害する者と迫害される者を作ったのは誰だろう?
 異端を決めるのは誰だろう?
 ここに一つ別の石を投げたい。
 彼女は小鳥でもあるし石でもある。
 私たちは彼女を、外とするのだろうか、内とするのだろうか。

   *

 子供の頃の夢は学校の先生だった。
 そして私はその「夢」の先生になった。

 子供を好きなのか、と訊かれたら悩む。
 でも誰も好きなのか、とは訊かない。好きなんですね、と先回りして言われる。私は曖昧に頷くだけで良い。

 「君のクラスでいじめがあるって。」
 幹さんが服を着ながら言った。何故こんなタイミングでそんな話を?と思いながら流されるように私は返す。
 「何その話?」
 「学年主任のところにじきじきに保護者から話があったらしいよ。そのうち君も呼ばれると思うけど。」
 「知らない。」
 「そう思って話した。」
 幹さんの素っ気ない話し方に少し苛立つ。いじめ?
 「いじめって?」
 「僕も詳しくは知らない。」
 小さくため息をつきそうになって、その息を飲み込む。知らないなら言わないでとも、どうしてこのタイミングで、とも言えない。

 先生という仕事は楽じゃない。楽じゃないどころか過酷だ。
 2年目にして私はもうへこたれそうになっていた。
 朝は5時半に起きて7時には学校に入っているようにする。ホームルームの時間までには授業の準備、校門前に立ち朝の挨拶、小さなミーティングで あっという間に終わる。授業が終わった後だって、初任者研修報告、公開授業指導案、食育指導計画、作らなければいけない書類が山となっている。
 新任で入ったこの学校は文科省の研究指定校となっていて、普段の業務だけではなく研修書類も多い。
 そして2年生の担任よりも中学年となる3年の担任は予想以上に大変だった。
 塾に行く子が増える。塾に行く子が増えると普段の授業で「もうわかっている子」とそうでない子の差が広がっていく。

 1学期の終わりぐらいから連絡帳に保護者からのちくりとした書き込みが増えた。
 ———子どものけんかで授業がつぶれていると聞きます。先生は放置されているのでしょうか?
 ———下校時間が守られていないようですが、先生は把握されていますか?
 ———先生の独断で席替えをしたと聞きました。判断基準を教えてください。
 ———伊藤先生は、結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのではないでしょうか。

 幹さんがいなかったらやめている、と思う事がある。
 ゆっくりと会えるのは1ヶ月に1度程度でも、学校に行ったら少なくとも幹さんと会える。
 くだらない理由だとも思う。教師になる前の自分だったらこんな話、鼻で笑っただろう。
 いや笑うどころか軽蔑しただろう。
 奥さんのいる人に会うために職場に行く。
 そんなものにすがらないとやっていけないような仕事なのか、とも思う。

 「誰から聞いたの?」
 「学年主任から。君に話す前に校長に相談に行ったみたいだ。君は保護者から目をつけられてるから。」
 「目をつけられてるって?」
 「1回ダメだと思われるともうダメなんだよ。僕も経験をした事がある。参観の時に黒板に書いた漢字を間違えてただけだった。『この先生は大丈夫か?一年間自分の大事な子どもを預けて』そうなると作ったプリント一枚でも槍玉にあがったりする。」
 「私がそうなってると言うこと?」
 「そういう風に見える。君に大きな問題があるわけじゃない。でもこういう事は起こる。」
 私は飲み込みきれずため息をついて幹さんを見つめる。こういう時に頭を撫でてくれるような人だったら良いのにとふと思う。
 でも幹さんは絶対にそんな事はしない。
 私に対して子ども扱いをしないように、幹さんは自分のクラスの生徒に対しても子ども扱いをしなかった。
 私はそれをとても好ましいと思っている。なのにこういう時はそれが寂しくなる。しかもこの人はこれだけを言い放って「帰って」しまうのだ。
 そして私はこの一人の部屋で校務分掌で渡された業務の続きの書類を作る。

 「明日、学年主任に聞いてみるわ。」
 「それがいいと思う。君が気づいていたか、いなかったか、で問題は大きく変わるから。」
 「大人ね。」
 「必要なこともある。」
 「ありがとう。」
 本当は少し忌々しく思っているのに、お礼を言う。こんな風にうまくやろう、良く思われたいとしてしまうのが全部の原因になっている気がする。
 でもそう思っても口には出さない。
 服を着て日付が変わる前に幹さんは私の部屋を出る。

   *

 学年主任に話をする前に事件は起こってしまった。
 trouble is my businessと書いたのはレイモンド・チャンドラーだった。あの言葉は探偵じゃなくて学校の先生にこそ合うのではないかしら———。そんなことを考えて苦笑する。そういえば本を読むのが好きだった自分さえ忘れていた。
 ああ、どうしてこう他のことを考えちゃいけない時にこそ思考は飛ぶのだろう。
 給食の後、一瞬職員室に戻ったその隙だった。
 職員室にかけこんできた生徒に連れられて教室に戻る。引き戸をあけると騒然としていたらしい教室が静まる。
 以前、幹さんと行った花鳥園を思い出す。餌を300円で買うと小鳥たちがむらがってくる。手のひらの上に餌を乗せて食べさせることができるというのが、そこでの売りだったが、私は怖くなって振り払ってしまった。感情の無い鳥の眼。小鳥たちは足元に落ちた餌を食べ尽くすとこちらを振り向きもせずに去っていった。まるで何も無かったみたいに。
 小鳥を振り払った私を幹さんは「こんなかわいいのに怖いなんて」と笑ったが、怖かったのは「群れ」なんだと言えなかった。幹さんが笑っているのが嬉しかったし、2人で外で過ごせるという滅多に無いことを、壊したくなかった。
 子どもたちはあの日の小鳥に似ている、と思った。小さくて柔らかくて守りたいと思うくらいなのに、その眼の奥は何を考えているのかわからないような気持ちになる。
 やっぱり私は教師にむいていないのかもしれない。

 先生、吉田さんが———。委員長が言う。ああ、そうだ。
 足を進めると、子どもたちが私を通す様に道をあける。その道の向こうでは小さな身体が横たわっていた。

 「君のクラスでいじめがあるって。」
 幹さんの言葉を思い出す。

 「眉海さんが吉田さんの首を絞めたんです。」
 声の方を向くと副委員長が真っ直ぐに私を見ていた。いや、私を見ているようでその視線は空っぽな気がする。そう思って周りを見ると私に注がれている視線は全部真っ暗な穴のように思えた。
 意味もなく叫びそうになるのをこらえて、倒れている身体の方に向かう。
 今走らなかったことも、きっと誰かが親に言ってまた問題になるんだろうな、と頭をよぎる。連絡帳に書かれる文字たち。
 倒れている小さな身体を触る。
 手をあてると胸が柔らかく上下している。気を失っているだけのようで少し安堵する。
 「先生一人じゃ運べないから、保健室に行って保健の先生を呼んできて。」
 委員長の男の子に言うと「できること」をもらってほっとしたような顔で動き出す。
 「先生、眉海さんは?」
 傍に首を絞めた、と指さされた眉海郁が座り込んでいる。
 「眉海さん?」
 声をかけると止まっていた時間が動き出したかのように泣きだした。泣き声と一緒に生徒たちの声も大きく広がっていく。
 声は言葉じゃなく音にしか聞こえない。
 「静かにしなさい!」
 言葉は音の中に飲みこまれていく。
 「おい、どうした?」
 教室の騒がしさに他の教室からも生徒が集まり出し、その喧騒に押されるように何人かの教師が窺うように顔を出した。
 その中に幹さんを見つける。
 倒れた生徒と座り込んだ生徒を見て、幹さんが駆け寄ってくる。
 「今、保健室へ委員長を行かせました。」
 状況の説明をできるはずもなく、それだけを幹さんに言う。

 ———幹先生と伊藤先生“できてる”んだって。

 小鳥たちのさえずりの中からそれだけが声となって届いた、気がした。
 声の方を振り向くが、もう聴こえたと思った言葉は音の中に溶けて誰が発したものだったのか見えなくなっている。
 怖い。怖い怖い怖い。墨を流し込んだように心が真っ黒に染まる。すがるように伸ばされる、無邪気だと思っていた手が、すがるのではなく自分を突き飛ばそうとしている。向けられている視線は敵意だ。教室中に満ちた悪意の空気にまるで自分が首を絞められたように息苦しくなる。
 私はどうしてここにいるんだろう?
 首を絞められたと言って倒れているこの子は?
 首を絞めたと言って座り込んで泣いているこの子は?
 どうしてここにいるんだろう?
 悪意の空気の渦は3人をぐるりと取り巻いている。

*

 ああ、そうだ。どうして教師になろうと思ったのか。あの時も私はこんな空気の中に居た。帰り道、いつも一緒に帰っていた2人が私から隠れてくすくす笑っていた。気づかないふりをして背筋を伸ばしてランドセルを背負った。椅子の上に塗りたくられた絵の具。先生に隠れて授業中に回される手紙には私の名前が書かれていた。上履きが汚い、テーブルクロスにアイロンがあたっていない、気持ち悪い、くさい———。

 私は気がつくと自分の髪を抜くようになっていた。やめようと思っても引きちぎってしまう。手のひら大の禿げができて、やっと母と教師が私の異変に気がついた。それでも私は「いじめられている」とは言わなかった。言えなかったのかもしれない。
 そもそも自分がいじめられているかどうかわからないのだ。
 ただ、誰も話してくれないだけ。だから自分も話さない。
 遠巻きな同級生たち。みすぼらしく髪がなくなったことでますます陰で何かを言われているであろうことは痛いくらいに感じていたけれど、どうしようもなかった。

 大げさかもしれないが絶望していた。小さな身体の中には真っ暗な絶望しか詰まっていなかった。何通か遺書を書いた。

 住んでいた家の近くには大きな川があって。私は良く轟々と流れる川を橋の上からずっと見ていた。暗い暗いイメージ。
 もし、あの時飛んでいたら———。
 引き留める強い何かがあったわけじゃない。母が心配して探しに来るという小さなドラマすら無かった。勇気がなかっただけだとも思う。
 そして、飛んだ私と飛ばなかった私の差異はそんなに無い気がするのだ。たまたま。
 あの頃私は、自分が死んだら私を無視したクラスのみんなは後悔するだろうか、母は泣いてくれるだろうか、そんな想像ばかりしていた。そんな風に光の届かない方に光の届かない方にと心を傾けていた。
 それは橋の下に流れる轟々とした流れに身をほうり投げるよりも、きつい事だったのでは、と思うのだ。

 いじめた方は忘れるがいじめられた方は忘れない、という。忘れはしなくても薄れる。時間は場合によっては幸福な薬となる。
 小学生の時から始まった“それ”は高校に入学するとともに無くなった。高校は少なくとも自分で選べる。私は逃げるために勉強をして同じ学校から入学する同級生が一番少なかった進学校に受かった。髪を触る癖は直らないけれど少しずつ抜くことはなくなっていった。

 何故いじめられていたと告白するのは恥ずかしいのだろう?
 いじめられるような何かが自分にあると知られたくないから。「嫌われる方にも原因がある」と教師は言った。「あなた何をしたの?」と母は言った。私は私が何かをしたから嫌われた。私が嫌われるのには私に原因がある。私が無視をされるのは私に原因がある。私が悪口を書かれた手紙を回されるのには私に原因がある。
 ———本当に?

 私はあの時の自分に「そんな事ないよ」と言ってあげたかったんだ。それで何が解決するわけじゃなくても。
 私は小さく震えている、絶望を身にいっぱいに詰めた私の味方になってあげたかったんだ。

 悪意の渦の中、
 首を絞められたこの子は私かもしれない。
 泣いているこの子は私かもしれない。
 だから。守りたかったんだ。

続く

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いただいた言葉たちは、大切に読ませていただきますとともに、こちらの連載にてお返事させていただいております。

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