額賀順子(ヌカガジュンコ)連載小説「小鳥と石」

小鳥と石 第1羽

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 えみちゃんの首を絞めた。
 細い首がくぅと鳴った。

  *

 えみちゃんは、背のちっちゃい順に並ぶと1番前。「前ならえ」と伊藤先生が号令をかけると腕を折って腰にあてる。わたしは2番目。腕をまっすぐ差し出してえみちゃんの肩甲骨に中指をわざとあてる。
 わたしの指があたってもえみちゃんはぴくりとも反応しない。でもわたしはえみちゃんが私の指があたっていることをとても強く感じて困っていることを知っている。

 えみちゃんは毎日遅刻してくる。小学校が始まるのが8時15分。朝の会が8時30分から。いつもえみちゃんは朝の会の途中で扉を開ける。
 副委員長の大橋さんが、えみちゃんの遅刻を帰りの会の「今日の困ったこと」で遅刻は悪いことだからみんなでどうしたらいいか考えるべき、と、ある日言った。
 えみちゃんは遅刻をしても平気そうなのにその時は泣きそうな顔をしていた。
 伊藤先生は今までにない困った顔をして(今日の困ったことレベルで言えば先生はえみちゃんの遅刻より大橋さんへの方が困ってるみたいに見えた)、「吉田さんはおうちのお手伝いもしているから仕方ないのよ」と言った。
 えみちゃんの名字は吉田という。学校ではみんな名字で呼びあいましょうというルールがある。わたしがえみちゃんをえみちゃんと呼ぶのは2人でいる時にこっそりとだ。でも心の中ではいつも吉田さんじゃなくえみちゃんと呼んでいる。だってえみちゃんは小さくて髪の毛も柔らかくて“吉田さん”より“えみちゃん”の方が似合うと思うのだ。
 男の子たちはいつも「廊下を走った」「お掃除の時間にほうきで戦争ごっこをしてた」なんて大橋さんに“みんなで考えるべき”ことを言われては伊藤先生にどうしたらいいかの作文を書かされたりしていたので、えみちゃんだけは先生の困った笑顔でそれを免れるのが不満そうだった。

 「吉田ばっかりひいきじゃねーかよ」
 ひとりの男の子が言い放った言葉を小石の一投にして、波のように「ひいき」のシュプレヒコールはあっという間に教室に広がった。
 先生は困った顔を引っ込めて首からいつもぶら下げている黄色いエコー笛を吹くと「吉田さんはおうちの朝ごはんやお父さんの出かける準備もお手伝いしています。もし吉田さんと同じようにできる人がいたら連絡帳におうちの人に書いてもらって来てください。先生はその人の遅刻も許します。」と少し怒ったように言った。
 えみちゃんは先生に認められたのに、ますます泣きそうな顔をしていて、大橋さんも何故か泣きそうな顔をしていた。

 みんなでどうしたらいいか、は、結局決まらないまま「みなさんさようなら」の声に締めくくられて帰りの会は終わった。
 先生が教室を出ていき、みんなが椅子をがたがた言わせて立ちあがっても、えみちゃんはお尻が椅子に貼りつけられたみたいに椅子に座ったままで居た。
 男の子たちはもうさっきのシュプレヒコールを忘れたみたいに、教室を飛び出そうとしている。

 その時、大橋さんが 「ごめんなさい」 と言っていきなり大声で泣き始めた。
 教室の音がぱたりと止まった。大橋さんの泣き声だけが響く。うわんというその泣き声はなんだか知らない動物の鳴き声みたいに聴こえた。
 誰が誰を泣かせたという事件ばかりの教室で、いつもだったら「わーるいんだわーるいんだ」と囃したてる男の子たちも今回は誰が悪いのかはっきりわからずに、でもこの事件の行く末は気になって何も言わずに眼だけ泳がせていた。
 「ごめんなさい。私が。帰りの会であんなことを言って。吉田さんを傷つけちゃって。」
 大橋さんはそう言うとまた泣き声を継続させた。
 吉田さんを傷つけちゃって、と、この事の当事者はあなただよ、と名指しされたえみちゃんは帰りの会の時よりも戸惑った顔で大橋さんの方を見た。

 次に口を開いたのは大橋さんと一番仲の良い女の子だった。
 「しょうがないよ。吉田さんは先生のお気にいりだし。遅刻はやっぱり悪いことだよ。」
 大橋さんはそう言われてますます泣き声を大きくした。
 “先生のお気にいり”という言葉は、止まっていた男の子たちにさっきのシュプレヒコールを思いださせるスイッチになった。
 お気に入り。悪い。二つの単語だけがざわざわと教室に浸みこんだ。
 大橋さんの泣き声は浸透をうながす塩だった。浸透圧を変え、少しでも早く。

 分岐機みたいだ。と思った。
 泣き声と言葉によって自分の思う方向に教室を支配する。
 大橋さんはきっと、先生が意のようにしてくれなかった裁きを自分ですることに決めたのだ。
 もし上手くいかなかったとしても大橋さんは「謝っているだけ」なのだ。誰からも断罪されることは無い。
 実際女の子たちからは「泣かなくていいよ」という声が大橋さんにかけられて、男の子たちは「悪いことをしているのに特別扱いで怒られないえみちゃんはずるい」という事に決めたようだった。
 教室の空気が大橋さんの泣き声とみんなの声で、水に濡れた砂の色が白から黒に変わるように色が変わっていくのを感じながら、わたしはえみちゃんを見つめていた。

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 わたしはえみちゃんが好きだった。
 わたしたちはおうちが近かったから良く一緒に帰った。
 えみちゃんは髪の毛を結うのが上手で、毎日違う髪型に結ってきていた。わたしはまだお母さんに髪を結ってもらってたのでえみちゃんがそれを自分でしていると教えてもらった時にはすごいと思ったんだった。
 それからえみちゃんのおうちに遊びに行った時には、えみちゃんがこっそりインスタントラーメンを作ってくれた。台所に小さな踏み台があって、えみちゃんはその踏み台に上って要領よくお鍋にお水を入れてコンロに火をつけてインスタントラーメンを作った。2人で1袋を半分こ。
 「秘密ね」とえみちゃんが言ったから。私はその日夕ごはんをあんまり食べられない言い訳をお腹が痛いと嘘をついて、お母さんは心配そうにしたんだっけ。
 わたしの家にえみちゃんが来るとお母さんはいつも帰る時に「お土産」と言ってお菓子を少しえみちゃんに渡す。他の子にはあげないのに。
 お母さんは「いつも仲良くしてくれてるから特別ね」と、わたしに言う。お母さんの“特別”は私にお菓子より甘い匂いを残す。

 えみちゃんとは1年生の時から同じクラスで、3年生のクラス替えで同じクラスになったのも嬉しかった。
 3年のクラスの担任になった伊藤先生は大学を出たての先生で、みんなに人気があった。背がそんなに大きくなくて(えみちゃんもそうだけど、わたしは背があんまり大きくない女の人の方が好きだ)、髪の毛は肩につくかどうかぐらい。胸が大きくて1,2年生の頃は男の子たちにふざけて触られたりしていた。それを「幼稚園とは違うからもうやめましょうね」って優しく男の子に言ってるのを聞いたことがあるけど、その男の子は後で隣のわたしたちの教室まで来ておっぱいを触ったって騒いでいた。わたしは伊藤先生のことをいいなって思ってたからなんとなく悲しくなって、でも同時にその男の子をちょっと羨ましく思ったんだった。

 3年生最初の学級会でクラスの係決めをする。伊藤先生は学級委員長にその胸を触った男の子を指名していた。1年の時にその子と同じクラスだった子に聞いたら「テストは100点が多い」らしい。お姉ちゃんが3人いるからお姉ちゃんにいつも宿題を手伝ってもらってるんだよ、とも教えてくれた。
 副委員長は推薦か立候補。
 こんな時に立候補する子はいない。そんな風に目立ったらこの後の学校生活が送りづらくなると小学3年生にしてみんな知っているのだ。わたしたちにとって学校は試される場だった。ここで嫌われてしまったらほぼ生活のすべてを氷の上に正座をするような心地で過ごさなければならない。
 「大橋さんが良いと思います。」と、その時に声をあげたのは、2年生の時にも大橋さんと同じクラスだった女の子だった。
 「え?」とちょっと戸惑った風にして大橋さんはそれを受け入れた。

 大橋さんは“正義の人”だった。
 帰りの会や学級会で悪いことをした男子を注意する。それは大概が他の子も言葉にはしなくても少し引っかかったりしていることが多い子で、大橋さんが言葉にすることでその引っかかりに改めて気づかされた。
 大橋さんの正義はクラスの正義だった。
 わたしは大橋さんの先生にあてられて黒板に答えを書く時に一回教室をぐるっと見る癖や、褒められた時に必ず小首をかしげて戸惑った風にするのがあまり好きではなかったけれど、帰りの会での断罪は女子に向かうことは殆ど無かったので別にいいやと思っていた。
 それに正義の人を好きじゃないとすることが、教室の中でどんな意味を持つかまでわからないほど9才は子どもでも無いのだ。
 だから、今日大橋さんの断罪がえみちゃんに向かったことに、わたしはポーズじゃなく戸惑っていた。

 えみちゃんが椅子から動けなくなっているのと同じくらい、私も動けなくなっていた。
 大橋さんの泣き声が「えみちゃんは悪」と決めた。
 いつのまにか大橋さんを泣かせたのはえみちゃんだと教室ではなっていた。

 あんなに大きかった泣き声が聴こえなくなるくらい男の子たちのえみちゃんを責める声と女の子たちの声が大きくなった時、大橋さんの視線とえみちゃんの視線がわたしの上にとまった。

 ―――ああ。どちらかを選ばないといけないんだな。

続く

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