優しいこころと暮らしをつくる、ダンサーの本棚

優しさってなんだろう、に触れる本 = 今江祥智『優しさごっこ』

大人の中のこどもの中の大人の中のこども…

今回ご紹介させていただく本は、今江祥智(いまえよしとも)氏が1977年に発表した作品、「優しさごっこ」です。

「優しさってなんだろう、に触れる本」というテーマを頂いていますが、優しさは、赤ん坊の手に握られたマシュマロのようなもので、僕なんかがギュッと握りしめたら、まるで台なしになってしまいます。なので、優しさとはなんちゃらかんちゃら、うんぬんをここで論ずるつもりはさらさらございません、などと初めは思っていたのですが、最後の方、ちょっぴり自分の考え論じちゃっています。Sorry!

「優しさごっこ」は、離婚した父(とうさん)と娘(あかり)のあたらしい生活と日々を描いた小説で、大人もこどもも読める本です。こどもの中に大人がいて、大人の中にこどもがいるよ、ということを著者である今江祥智氏がとてもナチュラルに表現していて、僕流の勝手を書かせてもらうなら、大人の中のこどもの中の大人が書いたような本です。

大人とこどもは、合わせ鏡を覗き込んだ時のように、…こどもの中の大人の中のこどもの中の大人の中の…、と無限にループしているような気がします。あるいは DNAのスパイラルのように、一人の人の中に何人ものこどもや大人が手を繋いで並んでいるのかもしれません。そんな新説を、この本を読んでから、心の中に想像し、温めています。

愛しい距離

 

この小説を読んだ後、長い散歩に出かけると、ふと人と人との距離について思い巡らせている自分がいました。人と人の距離というのは、近いようでいて、遠いのだけれど、そんなに遠いのかというと、実は案外と近い。そういう想いをちゃんと胸に留めて、人に触れたいよなぁ、などとこの本を読んだあとで考えたのです。でもこれ、なんだかどこかで聴いた歌の歌詞のような思想だな、そう思って記憶の中を探ってみると、やっぱりそうで、ハナレグミの「家族の風景」の中にこんな歌詞があったのを思い出したのです。

 

キッチンにはハイライトとウィスキーグラス

どこにでもあるような 家族の風景

7時には帰っておいでと フライパンマザー

どこにでもあるような 家族の風景

友達のようでいて 他人のように遠い

愛しい距離が ここにはいつもあるよ

何をみつけてきて 何と別れたんだろう

語ることもなく そっと笑うんだよ

それぞれの人の暮らしと風景の中に、出会いと別れが、光と影のように溶けあっているから、人を見る時には、その人がそこに立っているのをただ見るのではなくて、その人を包んでいる風景をちゃんと見て、感じてゆきたいな、などと改めて思わされた自分なのでした。

天使の距離

 

「優しさごっこ」も奥さん、お母さんとの別れが父と娘それぞれの背景として描かれていて、それが一層、とり残された父と娘の関係と距離を愛おしいものにしている、と僕は感じます。そして、そんな別れについていろいろと他人事のような距離で語っている僕も、去年の七夕に奥さんとの別れを経験していたのでした(なんだか、他人事のような口調です)。僕も「優しさごっこ」の物語のふたりと遠いようで、実はとっても近い気持ちを持って、この本を読んでいました。

七夕ドタバタ離婚、などと口にして、今では僕も笑っているけれど、近くに感じていた人と離れることは、とてもタフなことでした。「優しさごっこ」のように、こどもがいなかったので、想像よりも離婚後、さっぱりとした気分で生きていますが、渦中にいるときは、それなりに落ち込みました。ズド〜〜ンと。人生のビンの底のような処でうずくまっていたある日、あるこども?いや、天使かな?…が、僕を助けに来てくれたのでした。

奥さんが家を出ていってしまって、ぽつんとひとりぼっちになって、一番落ち込んでいたクリスマスの夜のこと。その日は、教会の人たちと一緒に賛美歌を歌っていても、周りの人たちがとっても遠くに感じられて、自分の周りだけがシ〜ンと真空パックされてしまったかのように静まりかえっていました。

そんな中、クリスマスパーティーも終わりが近づいて、僕はステージの端に越かけ、ほんとうにロンリーな気分だなぁ、そうぼんやり思いつつ宙を見ていました。すると一人の女の子が僕の横にやって来て「わたしあなたのことが大好き」と僕がぼんやり見つめているあたりを見ながら、ふわっと歌うように言ったのです。僕は咄嗟のことにとても驚きましたが、彼女のことは見ずに、「僕も君のことが大好きだよ」と返しました。

あとはもう、なんとも言葉にならぬ気持ちにこっちはなってしまって、心はどんぶらこっ、とあったかく波打って揺らいだのでした。その女の子は、なんにも言わないで、僕の横にずっと一緒にいてくれたので、この子は、本当にすごい子だなぁ、立派な人だなぁ、なんか神さまと一緒にいるみたいだなぁ、と深いリスペクトの念みたいなものを感じながら、ひょいと彼女の横顔を覗いてみると、顔が赤く染まっていて、ドキッドキッと僕と一緒にいっぱいいっぱいになっているのでした。こんな風に、柔らかく感じることの出来る人だから、神様も安心して彼女と一緒にいるんだな、と、僕はあらためて、その時の彼女の佇まいに感動し、まいっちゃったのです。

結局、その日の僕は彼女に人生のどん底を照らすような光をもらいました。そんなミラクルを僕にくれたのにもかかわらず、次に会った時の彼女は、まったく普通の女の子に戻り、淡々と遊びまわって、僕のことなど気にもかけず、まったくの無視といった感じなのでした。何事もなかったかのように日常をエンジョイする彼女を見て僕は思わず笑ってしまいました。

どうやら、彼女の中にいた無意識の天使がピンチの僕を助けてくれたようなのです。

良い友達に囲まれている人は幸せだ

 

「優しさごっこ」を読んでいると、主人公たちが、なんとも素敵な友人たちに囲まれていることに、僕は気づきました。とうさんもあかりちゃんも大変だけれど、ある意味ではラッキーなのです。人生の大変な時に、周りに素敵な友人がいること、そういう出会いがあることは、ほんとうに素晴らしい力になるのだということが、この本を読むとよくわかります。

自分の心が少々荒れていても、まわりに美しい気持ちを持った人たちがいてくれれば、自分の心の中を覗き込まなくても、友達の心に寄りかかるような感じで楽にしていられるし、心の整理がつかなくても、それを保留して、友人たちの美しい心の中に今の自分は生きているんだよ、と言い切るくらいの図々しさがあっていいと思います。

ぼんやりと浮かびあがってきた優しさの根っこのようなところ

 

それでも、心が嵐のように荒れ狂っている時は、大好きな友達や家族とも大げんかになってしまうことだってあるでしょう。人に優しさを求めすぎると逆に反動で破壊するような力が働いてしまうこともある。そんな厄介さも心はもちあわせているから、ぐるんぐるんと負の力が心の中で渦を巻いているような時は、もう人のことも自分のこともあきらめて、スナフキンのように自然の中にいるのがクールだと思います。

花には、いくらなんでもいじめられることはないし、鳥の声なんかを聞きながら、一人でいてもなんとなく一人じゃないよな、くらいのフィーリングが自然に自然の中から沸いてくるのを感じられるなら、あなたも立派なスナフキンです。

ムーミン谷には行けなくとも、自分なりの自然に帰ってそこにいればいい。

おっと、悦に浸って優しさを論じてしまった。でも、優しさを語るなら、ごっこ、ついてるくらいが本当はちょうどいい。そう思ったので「優しさごっこ」。

 

おすすめ

オンラインショップではよりそう。でしか買えないアートグッズやお花を取り揃えています。こちらよりぜひ一度ご覧ください!

この記事を書いた人:

振付家&ダンサー。東京都生まれ。フォルクヴァング芸術大学卒業。踊りを通して知らない場所や人と出会うこと、予定調和ではない驚きや想像性と出会える空間をつくることをテーマに活動している。

  • Twitterでシェア
  • Facebookでシェア
  • はてなブックマーク
  • Pocket
  • Lineで送る

記事への感想を送る

いただいた言葉たちは、大切に読ませていただきますとともに、こちらの連載にてお返事させていただいております。

お名前 (必須)

メールアドレス (必須)

メッセージ

このフィールドは空のままにしてください。