石垣島移住日記

【石垣島移住日記】竹富の日常で揺らいだ価値観。自然は「ただひたすら守り、敬うべき存在」なのか。

<前回の記事はこちら>

人でも生き物でも国家でも、異なる2つが同じ空間にあれば必ず何かの摩擦が生じうる。それをうまく乗り越えてゆくには、どうしたらいいんだろう。

ひとつは、はっきりとした境界線を設けて、お互いがそこを越えないようにすること。没交渉にしてしまえば、摩擦が生じることもない。

もうひとつは、逆に境界線をなくしてしまって、お互いに融和すること。もし両者の動きをぴったり合わせることができれば、摩擦は生じない。

僕が自然と接するにあたって、都会で暮らしていたときのあり方は前者だった。日常生活においては「都市生活」の境界線の内側でのみ暮らし、余暇においては一時的な摩擦が生じうることを十分承知して、境界線を越えて自然と接する。そこでは自然との摩擦ですら、非日常的な体験として楽しむ余裕があった。

けれども石垣島へ移り住んで否応なく自然に「めりこんで」過ごすうちに、境界線を保ちきれないことが早々に苦痛になっていった。そんな折に出向いた竹富島の知人のお家で知ったのが「家の内と外との境界線は明確でなくていい」ということ。そこでは家を自然に向けて開くことによって、自然からの圧力を受け流していた。僕は「境界線をなくしてお互いに融和する」という後者の考え方に目から鱗の思いだった。

けれども、異質な他者が摩擦を乗り越えるのに「融和する」などという理想論が、本当に成り立つものだろうか。

虫や草木を「処分する」日常へのためらい。

竹富島の朝。庭のテーブルセットに着いた家主のMさんが、藁ぼうきで卓上を掃いている。見ると、雨や陽射しに晒されて反り返った天板の隙間からたくさんのヤスデが這い出していた。ここ数日の雨つづきで、大量発生したらしい。

そういえば昨晩布団を敷く時にも床板を這うのを見たな、と母屋の床に目をやると、板戸の溝にもたくさんのヤスデがうずくまっている。Mさんにならってそれらをざっと掃き出して、熱湯をかけて処分した。湯を浴びてギュッと体を丸めるヤスデを見て、殺していいのだろうかという気持ちが一瞬よぎる。

朝食を終えると、庭の草むしり。Mさんが不在の間は、島の方が除草剤を撒いて手入れしてくださっているのだけれど、一雨過ぎると雑草たちは元気に芽吹いてくる。それをひとつずつ、丹念に根から引き抜いてゆく。
マンション暮らししかしたことのない僕にとって、ほぼ初めての草むしりはなかなか大変だった。しゃがんだ体勢でじりじり移動するのは疲れるし、砂の隙間から瑞々しい生命力をもって無数に芽吹く雑草を根こそぎ引き抜くとき、時折「せっかく生えたのになあ」という思いがよぎるのだ。

今度は大きく繁った芭蕉の葉を包丁でズバズバ剪定しながら、僕は次第に「これはこれまで受けてきた教育と違うぞ」と感じていた。
命は大切に。雑草という草はありません、すべて名前と個性のある存在です。草木をむやみに伐ったり折ったりしてはいけません――。
僕が受けてきた教育においては、自然はただひたすら守り、敬うべき存在だった。

それが今、ヤスデや草木をどんどん処分している。恥ずかしながら、僕の価値観はただ庭の手入れというだけの作業に、次々揺るがされていた。

自然のなかで、自らの「立ち位置」をつくること。

手入れというのは、人間が生きてゆくための空間をつくり、それを守ることだ。
そしてそれは、自然がじりじりと押し寄せてくるのを切り払い、押し返すことでもある。

Mさんのお家は、家主不在の間に押し寄せた生き物たちを処分し、押し返すことで次第に快適になっていった。前の道は美しく、庭は端正に、家の中は清潔になっていった。僕は「生活をつくる」という営みのもっとも根本の部分を目の当たりにしている、と思った。

それは自然の破壊でも、殺戮でもない。他のすべての生き物たちがしているのと同じように、自然の中で相克し、自らの立ち位置を勝ち取ろうとする。人間が初めて自分の居場所をつくるときには、常に必ずこうしてきたはずだ。

それができなければ、自然との至近距離において生きてゆくことはできない。

「どこまで切り払い、奪っていいのか」の問い。

人間同士の関係を考えてみる。
もし胸襟を開いて付き合おうとするならば、お互いにニコニコしているだけで物事がすべてうまく運ぶなんてことはありえない。自分はここまではいいがここから先はイヤだ、ではそちらは?という、お互いが心地好く過ごせる位置取りを模索しながら、摩擦を乗り越えてより深い関係を築いてゆく。

家を開け放って境界線をなくすというやり方もそうだ。
それは決して、自然に動きをぴったり合わせて融和するという夢のような話などではなかった。
明確な境界線がないからこそ、みずからの立ち位置をつくり、守るために、日々自然を切り払い押し返さねばならない。そして人間関係と同じように、その中で「どこまで切り払い、自分の空間として奪っていいのか」と常に自ら問いながら、互いが成り立つ関係を見出してゆかねばならない。

それが、竹富島での生活で気づいたことだった。

つづく


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この記事を書いた人:

魚譜画家。魚と水の生き物の絵を専門に描いている。学生時代は現代思想を学び、卒業後は一貫して「伝える」「表現する」ことに傾倒。東京のコミュニケーションデザイン会社にてディレクターを勤めた後、2016年4月から石垣島にて画家活動に専念。

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